正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十五

 岩波文庫128ページ「碓米伝衣(ついめいでんえ)する、以心学心なり」
 碓米伝衣というのは、五祖大満弘忍禅師から六祖大鑑慧能禅師に法が伝わったことを言っている。六祖は、樵をしていて文字を読めない、書けないということで、作男として米つき小屋で米をついていた(碓米)。五祖は慧能禅師に力量を認められて、後継者、法を継ぐ者としてお袈裟を与えた(伝衣)。これは心により心を学ぶということである。
 学歴というものがある。やはり有名な大学や大学院を出ているというと「おっ」と見られる風潮はあるのは事実だ。もちろん学問は重要だし、一生懸命学問を追求するということは良いことだ。しかし、その学歴と人間としての価値は関係ない。
 六祖は法を継いだけれど、五祖は他の僧侶たちから妬まれたり、恨まれたりしないように、夜こっそり六祖を逃がしたと伝わっている。字の読み書きもできない者が五祖の後継者になるなんて、僧侶の世界でも「許せん」と考えるものが多かったということだろう。しかし、六祖大鑑慧能禅師は仏道の力量があった。問題は仏道・仏教を体得しているか、大宇宙の真理を体得しているかであって、字が読める、読めないなんてことは関係ないということ。
 私も「一流大学を卒業している」という人を何人も知っている。優秀な人ももちろんいるけれど、「人間としてどうかしている」と思う人も相当多い。まあ、学歴というのも一つの目安にはなるだろうけどね。
 ただ、人間は自分の人生を自分で生きるしかない。瞬間瞬間必死に生きていくとき「学歴」というレッテルは屁の突っ張りにもならない。人間の価値は、今どう行動するかにしかない。
 自分がどう生きるのか、衣食住をどうするのか、頭で妄想したって何にもならない。
 坐禅していれば、どうすればいいか、直観・直感できる。信じてもらいたいなあ。