正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十六

 岩波文庫128ページ「剃髪染衣(ていはつぜんえ)、すなはち回心(ういしん)なり、明心(めいしん)なり」
 剃髪、髪の毛を剃ること、墨染の衣を着ること、お袈裟をかけること、つまり僧侶の姿となることは、仏道に心を回らし、心を明らかにすることである。
 形式を整えることにより身心の状態が変わるというのは、誰しも経験しているのではないだろうか。
 その形式が歴史を持っているということは、その形式がその職業や行動するときに、最も合理的なものなのではないだろうか。
 だから私は形式を軽んじることはしない。
 一方で、単なる形式主義は大嫌いだ。何のためにそうするのか、意味も分からず、ただ形式に固執するというのは愚かとしか思えない。
 形式を軽んじるのも愚かだし、固執するのも愚かだ。
 どう判断するかと言えば、いつも同じことしか書かないけど、大宇宙の真理に照らして判断するしかない。そしてそれは坐禅しなければ不可能。
 もちろん私は僧侶ではない。剃髪もしていないし、袈裟もかけていない。そうしたら気持ちいいかもしれないと思うけど、今の仏教の集団と関わるのは嫌だなと思うので、このままの姿で行くことになると思う。
 ただ、坐禅の前には歯を磨き、入浴して、洗濯した衣服を着てから坐禅するようにしている。
 道元禅師は正法眼蔵の中で、歯の磨きかた、顔の洗い方を詳細に書いておられる。日常の行動が重要というか、すべてなのだから、当然ではある。
 形式を軽んじも、固執もしない。普通に生きればいいのだと思う。