正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十七

 岩波文庫128ページ「踰城(ゆじょう)し入山(にっさん)する、出一心(しゅついっしん)、入一心(にゅういっしん)なり」

 踰城とは釈尊が悉多太子と言った頃(国王の跡継ぎ)に真理を求めて城を出たこと、入山は、俗に言えば世間を捨てて山に入ったこと。この城を出る、山に入る、共に真理を求めてのことなのだから、「心」ということでは、全く同じことである。

 人間の精神状態とか頭の中に浮かぶものは、ともすると、くるくるくるくる変わるものだ。私もまだそういうところは残っている。

 けれど、大宇宙の真理に従って生きたいという根底のところは変わることはない。

 これは思考ではなく、「心」としか言い様がない。これこれこういうことだから、と言葉では言い表せない、説明できない。そういう「心」になったとしか言えない。自分で言うのもなんだけど、「発菩提心」なのだと思っている。

 真理を求めるときには、そういう「心」しかないのじゃないかと思う。学者がテーマを追求するときは純粋に「心」しかないのではないなのだろうか。まあ、この研究が認められれば地位が得られる、金が手に入ると思っている人もいるだろうけど。

 学術会議とやらで、国会で騒いでいるようだけど、私には、学者をうまく利用するための機関、権威付けの組織じゃないかとしか思えない。少なくとも、学問の本質とは全く関係ないと思えてしかたがない。国会で時間を使う価値があるんですかねえ。

 学者も政治家もレベル低いんじゃないかと思う今日この頃です。ま、私が馬鹿なんでしょうから怒らないでね。