正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その十八

 岩波文庫128ページ「山の所入(しょにゅう)なる、思量箇不思量底(しりょうこふしりょうち)なり」

 釈尊が身分を捨て城を出て山に入ったというのは、思量箇不思量底ということである。思量箇不思量底というのは、正法眼蔵の「坐禅身箴(ざぜんしん)」の巻や、道元禅師のお書きになった「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」の中にも出てくるが、坐禅している状態、坐禅の中身のこと。

 坐禅しているときも当然意識はある。色々なものが頭に浮かんでくる。しかし、それを追いかけない。そのままにしてじっと坐っている。言葉で表現すれば「考えないということを考えている(思量箇不思量底)」

 釈尊が山に入った。釈尊と山は一心。釈尊と山を切り離して考えてはいけない。真実・真理を追求する行動と心は一つのもの。それは、考えるとか考えないとかいう頭の中のレベルのことではなく、ただただ行動している。

 現代は頭の中を偏重しすぎじゃないかなと思う。

 情報も重要だ。理論・思想も重要だ。しかし、それが真実・真理なのか、大宇宙の真理にかなっているのか、というところ、一番重要なところが、すぽっと抜けていると思う。それは坐禅した身心での直観・直感でしか得ることはできない。

 何だか、誰も彼もが貧弱な脳味噌で覚えたこと、思いついたことを、ぱーぱー大きな声で言い散らしているようにしか見えない。

 日本の国会も、「ほんとにそれって重要なの?日本はそんなことしている暇はあるの?」みたいなことでぎゃーぎゃーやっている。政府も野党もどっちもどっちだと感じられる。ある意味では、「自分は正しい」と信じられるんだから、健気というか幸せだとも言えるんだろうね。

 アメリカの大統領選挙も、まあ必死にやってますな。これも健気と言えば健気で、立派と言えば立派なんだろう。

 人種差別がトランプで酷くなったというけど、元々根底に差別はあって、それが表に出やすくなったというだけなんじゃないか、と思う。根底を解決せずに表面を取り繕ったってしょうがない。

 何回か書いたけど、本来人間は差別などできないし、ましてや人など殺せないもの。本来の姿を見失っているから、おかしくなる。坐禅して本来の面目に戻りましょう。