正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十

 岩波文庫129ページ「これを眼睛(がんぜい)に団(だん)じきたること二三斛(ごく)、これを業識(ごっしき)に弄(ろう)しきたること千万端(せんばんたん)なり」
 (思量箇不思量底、非思量などを積み重ねてきたものを)丸めて目の玉に入れるならばその量は二三斛(斛は物量の単位、日本で使う百万石の大名の石というようなものらしい)という大きさになるし、思量箇不思量底、非思量の中で身心が感じたことは、あらゆることにわたるのである。
 ここのところは、仏教・仏道、突き詰めれば坐禅の大きさのことが書かれているのだと思う。
 知識がある、いるんな理論を知っていると得意になっている人がいる。成功したとか威張っている人もいる。それはそれで結構なことだ。しかし、大宇宙の中では取るに足らないことだ。その知識や理論や成功が大宇宙の真理に照らしてどうなのか。日常の瞬間瞬間の行動が大宇宙の真理にかなっているのか。
 坐禅していれば、「眼睛に団じきたること二三斛、業識に弄すること千万端」なのだ。人間の頭の中というようなちっぽけなものではない。
 アメリカの大統領選挙は決着が着いたようだ。現実に生きて行かなければならないのだから、この決着をどう捉えて、どう行動していくのかは、とても大事だと思う。
 ただ、人類がどこに向かおうとしているのか、この点は混沌、曖昧模糊のままだ。
 坐禅してほしいけど、しないよねえ。