正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十一

 岩波文庫129ページ「かくのごとく学道するに、有功(ゆうこう)に賞おのづからきたり、有賞(ゆうしょう)に功いまだいたらざれども、ひそかに仏祖の鼻孔(びくう)をかりて出気(すいき)せしめ、驢馬(ろば)の脚蹄(きゃくてい)を拈じて印証せしむる、すなはち万古(ばんこ)の榜様(ぼうよう)なり」

  これまでに書いてきたように学ぶならば、その成果に評価は自然とついてくることもあるし、評価はされているけれど成果はまだまだ不十分ということもあるだろう。けれども、見た目には分からなくとも、仏祖・釈尊と同じである鼻で息をし、(昔の中国では日常のありふれた光景である)驢馬の蹄でもって真実を体験するのである。これは遠い過去からずっと続く有り様なのだ。

 かなり長くなったけれど、要は坐禅して仏道を学んでおれば、人から評価されようがされまいが、自覚していようがいまいが、仏祖・釈尊と同じ身心となり、普通に日常生活の瞬間瞬間を生きて行くことができる、というか、そうなるしかなくなる、ということだと思っている。

 普通に日常生活の瞬間瞬間を生きる、大宇宙の真理に従って生きる、これ以上の価値はないと思っている。口では偉そうなことを言っても、道や公園にごみを捨てる、煙草の吸殻を捨てる、ごみを分別しない、電車に駆け込み乗車をする、歩きスマホをする、などなと日常生活がまともにできないなら、人間としての価値は低いというより無いと言っていいんじゃないかと思う。

 日常生活がまともにできない人間が多い世界に世界平和など訪れるはずがない。核兵器などなくなるなんてことは不可能。

 言葉でどう言おうが、その時その場所では立派に振る舞っていても、日常が駄目なら、ジョークにもならない。

 坐禅して本来の面目、本来の人間になりましょう。