正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十六
岩波文庫129ページ「河もさらにおほかるべし、天河(てんが)あり、地河(ちが)あり、四大河(しだいか)あり、無熱池(むねつち)あり」
河といってもたくさんの河がある。天を流れる河(天の川?)もあるし、地を流れる河もある、四つの大きな河と言われるものもあるし、無熱池というのもある。
四大河や無熱池については、仏教の学問上は定義があるのだと思う。ただ、私は何回も書くけど学問として仏教を学ぶ気はない。だから、詳しく調べる気はない。知っていて悪くはないだろうが、知るために坐禅が疎かになったり、知識があっても日常生活がだめなら、知識に何の意味もない。
道元禅師は仏教・仏道を必死に学ばれたと思う。正法眼蔵でも当然「仏教用語」はたくさん出てくる。しかし、私は正法眼蔵は極めて現実的なことを説いている書物だと思っている。神秘性とか超能力みたいなことは書かれていないと思っている。ただ、仏教を説くためには、仏教用語を使わざるを得なかっただけだと思う。
仏教用語をやたらと使って、さも仏教が分かっているように振舞ったり、神秘的な力、超能力みたいなものと結び付けて仏教を語ったりするのは、はっきり言って、いかがわしいと思っている。
普通のことを普通にできることが、もっとも価値がある、貴重なことだと思っている。
だから、目立ちたいとか、人から誉められたい、尊敬されたい、地位が得たいというような人には仏教は魅力が無いものだと思う。だって「普通」になるだけだから。
人間というのは他人に認知してもらいたいものだそうだ。そうなのかもしれない。けれど、度を超してはいけない。YouTuberとかいう人たちがいるそうな。大変儲けている人もいるという。まあ支持してくれる人がたくさんいるんだから結構なことだと思う。
ただ私は衣食住に関わる仕事を毎日毎日黙々と「普通」にしている人たちが、国を世界を支えていると思っている。そこの価値を低くみている世界には未来はないと思っている。
坐禅して普通になりましょう。