正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十七

 岩波文庫129ページ「北倶盧洲(ほくくるしゅう)には四阿耨達池(しあのくだっち)あり。海あり、池あり」
 北倶盧洲には阿耨達池があるし、海も池もある。
 須弥山の周り東西南北には4つの島(大陸)があって、北にあるのが北倶盧洲だそうだ。ここに住んでいる人は他の3つに比べ優れており千年の寿命を保つのだそうだ。阿耨達池は金・銀などの四宝を岸として竜王が住み、四方に清冷の河が流れ出しているそうだ。
 これは、昔のインドで考えられていたことで、道元禅師は世界には様々な多種多様なものがあることを、仏教でとりあげられている1つの事例として書いておられるのだと思っている。
 時々、本当にこういうものがあるように言う人たちがいるけど、私は「物語」としか思っていない。
 最近もテレビ番組を降板した人がいて、スピリチュアルなことを言っている人が身近にいるとか。スピリチュアルってどういうことか詳しく知らないけど、私は坐禅しながら現実の世界を生きるので手一杯だから、詳しく知る時間もないし、興味もない。坐禅してればいいのだ。
 スピリチュアルとかで幸せに生きられると思う人はそうすればいい。人間は自由だ。ただ、責任はその人が負う覚悟はなきゃ駄目だけど。
 瞑想とかしているらしい。瞑想と坐禅は全く違うと私は思っている。
 坐禅は身心を正しい状態に置いて本来の姿=大宇宙の真理と一体になること。だから、こういう効果があるとか、悩みが解決するとか、ストレスが解消するとかがすぐに現れるものじゃない。澤木興道氏は坐禅しても「なんにもならん」としておられるし、西嶋和夫氏は「なんにでもなる」と書いておられる。いずれにしても、目標とか効果を求めて坐禅するものではない。しなきゃいけないからするだけ。
 瞑想して幸せなら別にそれでいいけど、楽になりたい、現実の世界と違う世界を体験したいなんて目標を持った時点で、坐禅とは全く違うもの。
 坐禅の姿勢をとればいいだけのことで、お金などいらない。瞑想はお金払わなきゃできないなんて、変なものだと思ってしまう。
 神秘的な感覚、体験したとか言うのは、私は居眠りして夢を見ただけだと思う。
 居眠りすると気持ち良いから結構なことなのかもしれないけど。
 悩み、苦しみから逃れようなんてするから余計苦しくなる。坐禅は直接苦しみや悩みを解決することはない。ただ、現実をしっかり受け止めて、瞬間瞬間どう行動するか(ひたすら悩み、苦しみに耐えるというのも行動)が直観・直感が出てくるということだと私は思っている。
 坐禅しましょう。