正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その二十八

 岩波文庫129ページ「地(ぢ)はかならずしも土(ど)にあらず、土(ど)かならずしも地(ぢ)にあらず。土地(どぢ)もあるべし、心地(しんぢ)もあるべし、宝地(ほうぢ)もあるべし」
 地といっても必ずしも土でできているわけではない、土があるならば地であるということでもない。土でできた地も当然あるし、心が作り出す地も当然あるし、宝でできた地も当然あるだろう。
 私は単純な人間なので、ここは「固定観念を捨てなさい」ということでいいんじゃないかと思っている。
 私は、人間は固定観念が好きな生き物なんじゃないかと時々思う。「固定観念を棄てろ」という固定観念に囚われている人もいる。固定観念の中にいた方が楽なのかな?
 サステナブルとかSDGsとか声高に言われている。日本も脱炭素を宣言したそうな。主張されていることは当たり前のことだと思うけど、固定観念に囚われて本質じゃないところで暴走する人たちが出てくるだろうなあと思う。こういう人たちの困るのは、自分たちの意に沿わない人を感情的に攻撃すること。
 またサステナブルSDGsで金儲けしようとする人たちも出てくるだろうなあ。もう出てきてるのかな。
 結局のところ何を言おうが、人間はどう生きたらいいかがはっきりしなきゃ始まらないと思うけど、そこはどうなんだろうか?
 世の中は様々だ、何でもありだと思っている。
 坐禅なしにサステナブルSDGsってできるのかな?一人一人の日常の行動がすべてを決めると思うけど、そこはどうするんだろう。罰則とか決めるのかな。「あいつはけしからん」なんて他人を攻撃する人たちも出てくるんだろうなあ。
 いやはや。坐禅しましょう。