正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十二

 岩波文庫130ページ「生時(しょうじ)は一点を増(ぞう)ずるか、増(ぞう)ぜざるか。死には一塵(ぢん)のさるか、さらざるか。この生死および生死の見(けん)、いづれのところにおかんとかする」
 この世界に生まれたとき、そのときには何か一つが増えたのだろうか、増えてはいないのだろうか。死ぬということは何か一つが消え去るのか、消え去るということはないのか。この生死そのものおよび生死に対する考え方をどのように位置づけようとするのか。
 私は坐禅して正法眼蔵を読んできて、生と死を区分するという感覚が無くなってきた。生きているときは一生懸命生きればいいし、死ぬときは死ぬしかない。
 もちろん、親しい人が死んで悲しいときは泣けばいい。そこは感情に素直でいいと思っている。平常心とか言って、感情を抑えることが偉いみたいなことを言う人がいるけど、本当に悲しければわーわー泣けばいいと思う。
 ただ生死について言えば、地球上で大宇宙の中で瞬間瞬間大量に生まれ、大量に死んでいる。そして地球も大宇宙も大きなレベルで変わることはない。
 何かが起こると、この世の終わりみたいに騒ぐ人たちがいるけど、大宇宙の真理に照らせば、別にどうということはない。一生懸命全力で対応する必要があるものもあるけれど、そうすればいいだけのこと。
 経済を回す、コロナ感染者が増加する、感染抑制のために自粛する。別に普通のことじゃないかと思う。違うのかな?
 コロナの感染が拡大するのは、当たり前で、急激な増加が問題なのでしょう?GOTOが悪いんじゃなくて、感染予防策をちゃんとしない旅行者が悪いんじゃないのかなと思う。
 何から何まで上手くいくなんてこと自体あるわけないじゃないか、と思ってしまう。
 私は、旅行嫌いだし、対人恐怖気味なのでGOTOには全然興味ないけど。
 Withコロナとかなんとか、格好いいこといってるけど、時間が経てば「コロナで騒いでいたときもあったねえ」ということになるだろう。
 地球も大宇宙も変わることはないのだから。もし、人類が全滅したとしても地球も大宇宙も変わることはない。人類というものがいなくなっただけのことだ。
 滅亡しないように坐禅して一生懸命普通に生きましょう。