正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その三十四

 岩波文庫130ページ「山河大地等、これ有無にあらざれば大小にあらず、得不得にあらず、識不識にあらず、通不通にあらず、悟不悟に変ぜず」

 (瞬間瞬間行動している中で心(しん)と山河大地等は一つ、同じであるから)山河大地は有るとか無いとかつべこべ言う必要はなく、だから大きいとか小さいとかいう尺度の話は関係ない、山河大地を理解した、していないなどというのは関係ないし、意識するとかしないというものでもないし、山河大地とは何かということに通じたとかいうことでもない、悟った悟ってないなんてことで山河大地そのものが変化するなどどいうこともない。

 山河大地、大自然そのものは存在する。当たり前。しかし、人間はその自然、地球、宇宙の中で、瞬間瞬間行動する。その行動しているとき、山や河、大地があるとかないとか言っている暇はない。ときどき「悟ったら、世界が変わって見えた」とかいう人がいる。そう感じるなら感じていればいいけど、山河大地、大宇宙が変わる訳がない。「悟る」と異次元、別世界に入るみたいな考え方は、私はとても危険だと思う。ただ、「普通の人」になればいいだけのこと。

 「桜を見る会」について地検が動いているそうな。遅いのかどうか私は判断できないけど、おかしなことをすれば必ずおかしな結果になる。因果の法則は絶対だ。それに、法の世界で「問題なし」とされることと「人間として正しいか」は必ずしも一致しない。

 日本という国、いや人類のレベルは高いとはとても言えないと個人的には思っている。それでも、大宇宙の真理、因果の法則という絶対的な真理に従って、少しずつだが、前進はしていると信じたい。

 私も欠陥だらけの人間で、あと何年生きられるか分からないけど、坐禅していれば少しはましな人間になれるんじゃないかと、坐禅にすがって生きていこうと思っている。