正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十一

 岩波文庫131ページ「露柱(ろしゅ)と同参せず、燈籠(とうろう)と交肩(こうけん)せず。かくのごとくなるゆゑに赤脚走(しちきゃそう)して学道するなり、たれか著眼看(じゃげんかん)せん」
 戸外に立っている柱と(存在という意味では同じだが)全く同じではないし、燈籠とも同じでもない。そういうことであるから、裸足で走り回って仏道を学ぶのである。その様子を誰が見ていることがあろうか。
 ここは、仏道を学ぶというのは、裸足で走り回るように必死で行動する、一生懸命日常生活を生きることだということ、そしてそれは自分自身がひたすらに行うことであって、誰かに見てもらう、評価してもらうということとなど関係ないということだと思う。
 生きるということは、瞬間瞬間どう行動するか、本当に必死の状態だと思っている。行動次第では最悪命を落としかねない。私も過去の行動の結果を背負っているものがある。死ぬまでには至らなかったけど、辛いものだ。
 だからこそ、正法眼蔵を読み、坐禅して、おかしな行動をしないようにしようと思っている。頭の中で「正しい行動をしよう」とか考えていても、本を読んで知識を溜め込んでも、身心が正しい状態でなければどうしようもない。身心を正しい状態にするには坐禅しかない。
 そして、これは自分自身が一人で行うものだ。行動の責任はその人にのみある。組織や社会は人間の集団であり、人間の関係、連携によって営まれているけど、一人一人がきちんとしていなければ、集団は成り立たない。
 行動の基準は大宇宙の真理であり、それは坐禅していれば、自ずと大宇宙の真理に従ったものになる。それ以外の他人の評価やら収入やら資産やらは、そんなものに影響されたら害になるだけだ。池袋で暴走した人も、選挙で買収したとかで裁判している人も、生きる基準が分からないのだろうなと思う。
 人間が生きる基準をはっきりさせないといけない。私は坐禅によってしか得られないと信じているけど、広まらないだろうなあ。