正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その四十二

 岩波文庫131ページ「翻筋斗(はんきんとう)して学道するなり、おのおの随他己(ずいたこ)あり。このとき、壁落(へきらく)これ十方を学せしむ、無門これ四面を学せしむ」
 翻筋斗(とんぼがえり)して仏道を学ぶのであり、それぞれが自分自身あるいは自分以外の森羅万象に従って学ぶのである。このとき、遮る(遮るものがあると思っている)壁が崩れ落ちあらゆる方角について学ぶことができ、門が無いのであるから全体(四面)を学ぶことができる。
 翻筋斗、とんぼがえりして、というのは固定観念とか自分は駄目だとか勝手に訳も分からず限界を作ってしまっていることから、飛び出し超越してぐるっと自分自身を変えてみろ、ということじゃないかと思っている。
 自分は駄目だという限界を作る以外にも、「自分は偉い」「自分は優れている」と思っているのも、自分自身を見失っているという点で限界を作っていると言っていいと思う。
 そんな頭の中の観念から飛び出せということじゃないかと思っている。
 随他己。他も己も大宇宙の一部なのだから、真実に従って学ぶということなのだろう。
 現実の世界、日常生活の中では、周囲に従って行動するときもあるし、周囲がどうであろうと自分の考えに従って行動するときもある。このことを通じて仏道を学ぶということも含んでいるのではないかと思っている。
 現実の世界では、今の時点では必ずしも正しくはないが、時間と環境が整えば正しい方向に行くというケースもある。このときに、いたずらに今の時点をあげつらって「駄目だ駄目だ」と騒いでも意味がない。
 俺が俺がと主張して周囲を撹乱して自己主張している人もいるけど、幼稚というかレベルが低すぎる。
 ただ、周囲がどう言おうと、例え非難され罵倒されても自分が真実と信じることに従って行動しなければいけない時もある。
 どうするかは坐禅すれば自然と行動できる。
 自然と行動できること、これが壁が崩れ落ちるということであり、無門ということであると考えている。