正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その四十五

 岩波文庫132ページ「発菩提心は、有(う)にあらず無(む)にあらず、善にあらず悪にあらず、無記にあらず。報地(ほうじ)によりて縁起するにあらず、天上有情はさだめてうべからざるにあらず」
 菩提心を起こす(発菩提心)は、抽象的な概念での有るとか無いとかいうものではなく、善いことだとか悪いことであるなどという対象ではなく、だからといって善悪を超越したもの(無記)でもない。過去の行いの結果から起こるというものでもない。天上界の人々は満ち足りているのだから菩提心を起こすことがないと決まっているものでもない。
 真実・真理を知りたいというのは、私なりに言えばごく単純な、当たり前のことであって、有無、善悪、無記、因縁、天上界とか余計な言葉を弄する必要などない。むしろそんな言葉を使うと、おかしなことになる。坐禅しようと思い坐禅する=発菩提心なのだ。
 この中で、「報地によりて縁起」は過去の行い、「因縁」ということだろうと思うけど、道元禅師はそんなものは関係ないとおっしゃっている。因果の法則は絶対的に存在するが、原因によって引き起こされた結果がどうであれ、今この瞬間を生きるしかない。今この瞬間を生きるとき菩提心を起こすことがありうる。過去の報いで菩提心が起こせないなんてことはあり得ない。よく宗教とかスピリテュアルみたいな風を装って「悪い因縁がついている」なんてことを言う奴らがいるけど、ただの詐欺師にすぎない。今現在の状況がどんなに苦しくとも、苦しさを受け入れて生きていくしかない。坐禅していれば必ず何とかなると私は信じている。
 天上有情は、神々と言ってもいいのかもしれないけど、神々でも菩提心を起こさないということはないとされている。正法眼蔵を読んでいると、いわゆる絶対的な存在である神というものは存在しないように思う。世界中には完璧な神の存在を信じている人たちがいるようだ。それで幸せならとやかく言う必要はない。ただ、例えそのような存在があったとしても、現実の今の瞬間瞬間を生きているのは自分自身であって、神様にすがっている暇なんかない、と私は思う。あくまでも、「私は」ですよ。怒らないでね。
 話はそれるけど、総理大臣が自分のことを「ガースー」と言ったとかで騒いでいるけど、どうでもいいとしか私には思えない。政治家は結果責任だけで判断すればよくて、こんなことで議論するなんて時間の無駄としか思えない。「コロナで大変なときにこんなことを言って」とか怒っている人もいるようだけど、こんなことを問題にしてコロナ対策の時間を無駄にする方が馬鹿馬鹿しいと思ってしまう。
 とにかくどこもかしこもレベルが低い。
 坐禅してくれませんかねえ。