正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十

 岩波文庫133ページ「「古仏心」といふは、むかし僧ありて大証国師にとふ、「いかにあらむかこれ古仏心」。ときに国師いはく「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」。しかあればしるべし、古仏心は牆壁瓦礫にあらず、牆壁瓦礫を古仏心といふにあらず、古仏心それかくのごとく学するなり」

 「古仏心」とは何かと言うと、昔ある僧侶が大証国師(南陽慧忠禅師)に問いかけた「古仏心とはいったいどういうものでしょうか」。そのとき大証国師は「牆壁瓦礫(かきね、かべ、かわら、こいし)である」と答えられた。このことから知らなければならない、単に言葉の上だけで、古仏心が牆壁瓦礫であるとか牆壁瓦礫が古仏心であるとか言うのではない、このように古仏心を学ぶのである。

 人間は現実の世界で瞬間瞬間生きていく。そのとき現実・事実(牆壁瓦礫)と取り組んでいかなければならない、その現実と自分との接触・取組みそのものが古仏心なのだ。抽象的・観念的に「古仏心=牆壁瓦礫」と理解してはいけない、ということだと思う。

 抽象的・観念的な理屈を言い散らかしている人たちが多いように感じる。目の前の現実に対しどう行動するかが重要なのであって、その行動の裏付けとしての理屈ならいいけど、単なる口先だけの理屈など耳障りなだけと私には感じられる。

 コロナについて特別措置法の改正をするという。感染拡大を抑止する、医療を守るということで必要なんだろう。だけど、何でもかんでも法律で解決しようとするってのは、個人的にはどうなのかな?と思う。法律に違反していなくても人間としてやってはいけないことはある。「法律上問題ない」とか声高に言う人間は大体いかがわしいと私は思っている。一人一人が普通にまともになるのが究極の解決法で、それは坐禅でしか実現できない。

 政治家の方がコロナによってお亡くなりになった。基礎疾患があったというし、党の要職にあったというから激務だったのは間違いない。悪条件が重なってしまったということだと思う。基礎疾患があって激務となればコロナが流行してなくてもリスクは高かったろうと思う。有能な方らしいから頑張ってしまったのだろうけど、何とか仕事の方は調整できなかったのかな、と思う。有能であれば長期的に国に貢献してもらいたかったなと思う。

 現実と向き合ってどう行動するか、重要なことだと思う。