正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十四

 岩波文庫134ページ「寿行生滅(じゅぎょうしょうめつ)の刹那(せつな)に生滅するあれども、最後身(さいごじん)よりさきはかつてしらず。しらざれども発心すれば、かならず菩提の道(どう)にすゝむなり。すでにこのところあり、さらにあやしむべきにあらず。すでにあやしむことあり、すなはち平常なり」

 生命は瞬間瞬間に生まれては死ぬことを繰り返しているけれども、最後に死を迎えた先のことは知ることはない。そのようなことを知らなくても真実を知りたいという気持ちを起こしたなら(発心)、必ず真実の道に進むことになる。我々は既にこの瞬間に存在しているのだから疑う必要はない。それでも怪しむこともある、それも含めて平常、普通のことである。

 最後身は水野氏の脚注では「弥勒のように、次に仏となる最高位の菩薩」とされている。けれど、私には何のことやらわからない。私は西嶋氏の解釈なら理解できる。上記は西嶋氏の解釈に従ったものだ。

 人間は瞬間瞬間に生滅を繰り返している。体の細胞も入れ替わっているというし、今の瞬間の自分は常に今この瞬間にしか存在していないのだから、過去の自分は死去したと考えることもできると思う。瞬間瞬間生滅していくのだから、不変なんてことはない。必ず違う世界が現出する。

 コロナでこの世の終わりみたいに騒ぐのは、その意味でつまらないことだと思う。物凄く厳しい、辛い状況に置かれる、命を落としてしまう人も出てきてしまうだろう。しかし、この状態が変わらないということはあり得ない。医療関係の人たちだって必死に頑張っている。一部のあほを除けば感染拡大防止の努力はみな続けていると思う。刹那生滅なのだから変わらないものはない。コロナが一時的にはさらに感染拡大するかもしれないが、それがずっと続くことはない。

 政治が希望を持てる未来を示していないとかいう人たちがいるけど、政治なんかに自分の未来を託するなんて正気の沙汰ではないと思っている。自分の人生は自分で生きる。私が恐ろしいと思うのは、政治が「これが正しいから従いなさい」と権力を行使することだ。隣国をはじめ世界にはそういう国が少なくないと思う。それに比べれば、日本なんてましな国だと思いますがね。

 政治もマスコミも権力者だ。現在はネットも社会的影響力という意味で権力者的になっているのかもしれない。

 私は、坐禅して、普通に「平常心」で、権力者の振舞いも見ながら、自分の人生を生きていこうと思っている。