正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その五十八

 岩波文庫135ページ「百丈大智禅師のいはく、「若執本清浄本解脱自是仏、自是禅道解者、即属自然外道」」

 百丈懐海禅師がおしゃった「もし自分は本来清く正しい(清浄)であり、本来仏であり、禅とはどういうものか分かっているのだ、などということに執着するならば、その瞬間に自然外道(じねんげどう 坐禅せずそのままでよいのだという仏教の思想ではないもの)になってしまう。

 このあとに道元禅師が解説をされる。

 私なりの感想を書いてみる。

 私は坐禅した身心で瞬間瞬間の現実の生活を普通に行動していくことが大宇宙の真理に適っていると思っている。

 坐禅せずに、「自分は正しい」ということはあり得ないということになる。こう書くと「坐禅原理主義者」「道元原理主義者」と言われるだろうけど、そう信じているし、それが真理だと思っている。宗教なのだから信じられなければ意味がない。

 また、人間の真の価値は行動にあると思っている。どんなに立派な偉そうなことを言っていても、やっていることがおかしければ、その人間の価値はないと言ってよいと思っている。

 現在は、本当に「言葉沢山」の時代だと思う。言葉は溢れているけれど、人間の行動は果たして正しいのだろうか。気の利いた風なことをもっともらしい顔して言うだけなら、別にどうということはない。何だか「私は正しい」みたいな顔してのたまわっているのは見飽きました。本当に自分は正しいと思っているのかな。自然外道じゃなきゃいいけど。どうということは言ってないのに、そういう人が「文化人」「キャスター」「コメンテーター」とか言われて重宝されているみたいだ。ただのおっちょこちょいだとしか感じられないけど。いやはや。

 コロナにしたって、感染しやすい状況、予防する方法はある程度分かっているのだろう。100%ではないにしても、それを意識した「行動」がなければ感染拡大するに決まっている。GOTOが悪いと言っている人がいるけど、感染予防の行動をとったとしてもGOTOで感染は拡大したのだろうか。旅行行って調子に乗って騒いで感染しちゃったんじゃないの?そんなことはないのかな?

 まあ、社会がどうなるかは一人一人の行動によって決まることだけは間違いない。

 私は坐禅して行動していきます。