正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 仏性その六十四

 岩波文庫136ページ「思量するといふは、人体はたとひ自他に罣礙(けいげ)せらるといふとも、尽十方界なりと諦観(たいかん)し、決定(けつじょう)するなり。これ未曾聞(みぞうもん)をきくなり。方等なるゆゑに、界等なるゆゑに」

 思量するとはどういうことかというと、人体をもって生きていく場合には、自分自身や他者によって自由にならない、制限されるようなことがあるとしても、この人体は尽十方界=大宇宙と同じであるとはっきりと理解し、納得することである。このようなことは、今まで聞いたことのないことだが、それを聞いているのである。どの方面も均等であり、どの世界も均等であり、均衡が取れているのだから。

 「諦」は、はっきりと理解するという意味で、断念するという意味での「あきらめる」ではないので、念のため。

 人間は大宇宙そのものである。以前にも書いたけど、大宇宙の一部を人間の形をした皮の袋でくるんだものが人間だと思っている。そして大宇宙は均等であり、均衡しているものだから、本来人間も均等であり、均衡している、バランスのとれたものであるはずなのだ。しかし、欲望や見栄などにより、そのことを見失ってしまっている。だから坐禅して本来の姿、真実人体に戻る必要があるのだ。

 今の世の中「自分は、自分は」とアピールすることに夢中になりすぎじゃなかろうか。なんでそんなにアピールしたいのだろう。言ってることはもっともらしいが、実際の行動はどうなのだろう。

 まあ、アピールが上手くて一時的には評価されるかもしれないけど、結局はどんな行動したか、するかにしか人間の価値はないと思っている。

 政治の世界もアピール合戦みたいで、いかにも底が浅いと思う。政治家にしっかりしてもらわなきゃ困る。大宇宙の真理に基づいて黙々としっかり行動する政治家が増えて欲しいもんだと思う。コロナにしても目先のことで、おろおろぎゃーぎゃー、与野党とも情けないと思う。

 まあ国民一人一人がしっかりするしかないんでしょうね。

 私は坐禅して日常生活を瞬間瞬間生きていきます。