正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その六十九

 岩波文庫136、137ページ「いまのなんぢ、いまのわれ、尽十方界真実人体なる人なり。これらを蹉過することなく学道するなり。たとひ三大阿僧祇劫、十三大阿僧祇劫、無量阿僧祇劫までも、捨身受身しもてゆく、かならず学道の時節なる進歩退歩学道なり」

 今現在のあなたも、今現在の自分自身も大宇宙そのものの人体なのである。そのことを忘れて過ごすようなうっかりすることなく仏道を学ぶ(坐禅する)のである。たとえ人間が想像もできないような無限と言ってもいい長い時間であろうと、瞬間瞬間変化しながら学んでいけば、必ずそれは学道している時であり、その学道の中では前に進んだりあるいは過去を振り返ったりしながら学んでいくのである。

 人間は大宇宙そのものであり尊い存在だ。しかし坐禅せず、欲得やら見栄やら過去のしがらみやらで、その尊さが分からなくなってしまっている。そのことに気づきなさいと道元禅師はおっしゃっているのだと思う。

 宇宙はいつ誕生したのかわからない。誕生する前はどうだったのかもわからない。人間の想像を絶する時間なのだろう。しかし真理の存在は絶対のものだ。存在しない時などない。なのに今は薄っぺらな脳味噌が思いついた理屈をぺらぺら得意気に披露しているように見えてならない。

 捨身受身についてだけど、私は人間は瞬間瞬間生死を繰り返していることだと思っている。一瞬前の私は存在しないのだから死んだと言ってよいし、現在この瞬間に存在しているのだから生きていると言ってよいのだと思っている。だから、今この瞬間にどのように行動するかが大事で、そのことが人間の価値を決める。

 進歩退歩というのは、人間か生きていれば当たり前とのこと。坐禅しているからといって常に進歩するなんて現実にはあり得ない。立ち止まって考えたり、あるいはやり直してみたりする。当たり前のこと。道元禅師は徹底的に現実に即して説かれている。仏教は現実を対象にしているのだから当然だけど。

 退歩は現実には必要な最善手である時がある。進歩するだけが立派だなんていうのは浅はか過ぎるお馬鹿さんだと思う。

 坐禅して現実をしっかり体得して瞬間瞬間行動してほしい。国会の論戦なんて薄っぺらい口喧嘩にしか見えない。

 とにかく私は坐禅して普通に生きていきます。