正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十

 岩波文庫137ページ「礼拝問訊するすなはち、動止威儀なり。枯木を画図(わず)し、死灰を磨甎(ません)す。しばらくの間断(けんだん)あらず。暦日は短促なりといへども学道は幽遠(ゆうおん)なり」

 礼拝問訊という仏教における挨拶、動いたり止まったりという行動に大宇宙の尊い姿が現れているのである。欲望、利得、見栄、他人の評価を気にすることなどが抜け落ちて例えるなら枯木や灰のような状態で坐禅をする(画図、麼甎)のである。坐禅をして日常生活を送ってい行くことに少しの絶え間はない。暦の上での時間は短いけれども、仏道を学ぶ、坐禅をするということは人間が把握することができない長く、広がりを持ったものである。

 坐禅に何の意味があるんだと坐禅をしたことが無い人が傍から見ればそう思うだろう。枯木を描いていたり、瓦を磨くような意味の無いことに見えるだろう。

 坐禅とは何かはやってみない限り分からない。澤木興道氏が「饅頭はどういうものか言葉でどんなに説明しても分からないが、一口食べてみればたちどころに分かる」というたとえ話をされているが、まさにその通りだと思う。ただ、それでは後世に伝わらないので道元禅師は正法眼蔵をお書きになって、本質的に不可能なものを何とかして伝えようとなされた。だから、正法眼蔵を読みながら坐禅することが重要なのだ。

 人間は瞬間瞬間行動していくのだから、切れ間はない。坐禅をしていると大宇宙の無限さ、永遠さを感じることがある。我々はその宇宙と同じ存在なのだ。

 一方で何回も書いているけど、坐禅したら超人的な偉人、神のような存在になる訳ではない。ただの普通な人になるだけ。普通の人というのは大宇宙の真理に従って生きている人である。坐禅したら成功するとか幸福になるとか言う人がいるけど、人生そんな単純なものであるはずがない。苦しい時は苦しむしかない、そのことを受け入れられるようになるだけである。

 政治家は「国民みんなが幸せになる生甲斐を持てる世の中を作る」なんてありえないことをいう。まあそう言わなければ選挙に勝てないんだろうね。そんなことで当選してしまう国って変だとは思うが仕方がない。当然そんなことはできないから、「公約違反だ」なんて批判する人たちが出てくる。茶番劇というのはこういうことなんだろうね。

 コロナだって簡単に終息するとは全く思えない。死亡する人は増えるだろう。政治家は最悪の場合どこまで被害がありうるのか、その時はどうするのか当然考えているだろうね。考えていないならお馬鹿さんとしか言いようがない。国民に言えばパニックになって大混乱だから言わないのだろうけど。感染拡大を防ぐために施策を打つなんて当たり前すぎて、もっともらしい顔して言われると笑ってしまう。まあきちんとやってください。しかし、最悪の場合、国民の犠牲を防げないこと、その時はどうするのか、そこに政治家の本当の価値があるのではないだろうか。

 私は坐禅して普通に生きていきます。坐禅してたってコロナに罹患することは防げない。罹患する可能性が低い行動を普通にやっていくだけだ。

 そして日常生活が普通に生きられる人が増えてくるしか国が良くなる方法はない、そう信じている。