正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十一」

 岩波文庫137ページ「捨家出家せる風流たとひ蕭然(しょうぜん)なりとも、樵夫(しょうふ)に混同することなかれ。活計たとひ競頭(きんとう)すとも、佃戸(でんこ)に一斉なるにあらず」

 俗世間を出たとしてその日常の様子がたとえ寂しげなものであったとしても、木こりの様子と同じだと考えてはいけない。日常生活では次から次へとまるで競うように種々雑多なことが起こるけれども、自由を奪われ強制的に働かされている人たちと同じと考えてはいけない。

 佃戸というのは昔の小作人のことをいうそうだ。ここの表現は道元禅師の時代の言葉づかいと理解していただきたい。

 ここで説いておられるのは、仏道修行をしているからといって、特別な様子になるなんてことはない。ごく普通の「うだつが上がらない」ような様子であることさえあるということ。当たり前だが神々しい姿になるなんてことが目的ではない。

 また、仏道修行をしているからといって、日常生活の瞬間瞬間を必死に対処しながら生きていくことに変わりはない。

 このように当たり前のことを当たり前に受け入れること、それが重要だと思う。

 「楽になる」「救われる」そんな単純なことじゃない。

 ごく普通の日常生活を大宇宙の真理に従って生きていくことしかない。そしてこれは、非常に難しい。普通のことを普通に一生涯やり続ける、こんな困難なことはない。そしてこれ以上の価値はない。

 普通のこととは何か、これも難しい。

 今SDGsとか流行っているようだけど、これも普通のことを普通にやるということにしか見えない。人間は欲望などに駆られ普通じゃなくなることは珍しいことではない。普通になりましょう、ということなんでしょうね。ただこれに乗じて金儲けしようとする奴とか、不満な人も一杯いるだろうね。

 坐禅することしか真に解決する方法はないと信じている。