正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十二
岩波文庫137ページ「迷悟善悪の論に比することなかれ、邪正真偽の際(きわ)にとゞむることなかれ」
今この瞬間瞬間での生活=仏道修行について、迷いとか悟りとか善であるとか悪であるとか、そういう頭の中での抽象的な比較をして論じるようなことをしてはいけない。邪なものだとか、正しいものだとか、真偽だとかそんな範囲の中に留まってあれこれ考えたりしてはいけない。
坐禅によって大宇宙の真理と一体となる。これは人間の脳みそ、頭の中でどうこう出来るものではない。坐禅という行動をする以外に大宇宙の真理と一体となることはできない。
今は知識とか学校の成績とか会社での業績とか、相対的な尺度が大勢を占めていると思う。しかし、人間の価値はそんな相対的なものではなく、大宇宙の真理に即しているかどうかという絶対的なものだ。
自分は正しい、あいつは間違っている、これも頭の中の観念論で、これに囚われ、悪く言えば中毒して狂っている。
何回も書いたけど、歴史を見ても戦争は正義の名の下に行われているし、虐殺・迫害も主義・主張、その時の理屈・知識によって行われている。
ハンセン病だって当時の医学のレベルで迫害が起こったのではないのかな?医学も進歩するし、言っちゃ悪いが、理論の流行り廃りだってあるように思う。でも、それに振り回されてしまう。
トランプ大統領によってアメリカが分断されたとか言っているけど、大統領の影響はある程度あるにせよ、トランプはただのきっかけで、もともとそう思っている人たちがたくさんいるということに過ぎないのではないか、と思う。
これを理屈で戦っても、表面はおさまったように見えたとしても、根底は変わらないと思う。人間の頭で考える理屈では何ともならないだろう。そうなると、そのときの権力者が信じる理屈を押し通すことになる。法律を作り、罰則を作り、理屈の教育を押し付ける。そうするしかないんだろうけどね。
で、権力者が変われば「正義」も変わる。日本の政党を見ても、どれもこれも偏った狭い理屈しか言ってないように見える。
では、どうするか。坐禅するしかない。大宇宙の真理に従って日常生活を瞬間瞬間生きていくしかない。これが、広まることを願うけど、無理だろうなあ。