正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十三

 岩波文庫137ページ「「生死去来真実人体(しょうじこらいしんじつにんたい)」といふは、いはゆる生死は凡夫の流転(るでん)なりといへども、大聖(だいしょう)の所脱なり」

 人間は瞬間瞬間生まれ、死にながら(過去は存在しない=死、現在この瞬間=生)日常生活を送っており、これが大宇宙と同じ真実の人体ということだが、このように普通の人が日常生活を悩み、苦しみ、喜び様々な状態で流転していることは、いわゆる「大聖」と言われるような人が「解脱」したということと同じである。

 ここのところは、私は坐禅しながら日常生活を送ること=解脱、悟りと同じことだという風に思っている。

 個人的には、解脱とか悟りという言葉は嫌いだ。なんだか、超人的な、神秘的な臭いがするからだ。仏教はあくまでもこの現実の中でどのように生きるかの問題を扱っているのであって、そういうものを超越して別の次元、別世界に至ることを目的にするものではないと信じている。もしそんなことを目的にするならば、それは詐欺だと思っている。

 坐禅して仏道・仏教をきちんと理解し、日常生活を普通に生きている人を尊敬はする。しかし、神秘的な超人的な存在として崇めたりはしない。

 お経とか説話の中に、神秘的な能力、神通力とか千里眼とか色々出てくるけど、これは坐禅の意味・価値を伝えるための喩え話だと思っている。坐禅して身心がバランスして大宇宙と一体となっていれば、「あ、これは変だな、危ないな」とか「こういうことをするとこうなるだろうな」ということが体感で分かる。これを神通力とか千里眼と呼んでいるのだと思っている。

 坐禅しましょう。