正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十四

 岩波文庫137ページ「これを真実体とするのみにあらず。これに二種七種のしなあれど、究尽するに面々みな生死(しょうじ)なるゆゑに恐怖(くふ)すべきにあらず」

  毎日毎日瞬間瞬間生死を繰返し生きていく訳だが、このことだけを大宇宙の真理と一体となった「真実体」ということではない。生死は二種七種というように分解できるが、突き詰めて言えば全て「生死」なのだ。だから、毎日毎日瞬間瞬間を生きていく、一生懸命生きていくしかないのだから、生とか死とか怖れる必要のないものなのだ。

 毎日毎日瞬間瞬間を一生懸命生きる、これ以外にはないと思っている。生とか死とか怖れている暇などないのだ。前にもあったが、生も一時の位なり、死も一時の位なり、なのだ。今この瞬間を生きる、行動する。それでいいのだ。上手く生きられる、楽に生きられる、死にたくないとか、そんな思惑は瞬間瞬間の中では入り込む余地はない、そう思っている。

 思惑が入り込む余地のない瞬間に正しく行動できる、大宇宙の真理に従って行動できるそのためには、坐禅するしかないと信じている。