正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十六

 岩波文庫138ページ「生は死を罣礙(けいげ)するにあらず、死は生を罣礙するにあらず、生死ともに凡夫のしるところにあらず」

 生と死を別々なものと考えて、生が死を邪魔したり、死が生を邪魔したりするというような関係にあるのではない。生死は凡夫には知りえないところのものだ。

 頭の中で観念的に、抽象的に考えれば、生と死は別なものということになる。しかし、これまでのところに述べられているように、日常生活は生死の連続と考えられる訳で今のこの瞬間を一生懸命に生きればいいだけ。生とはなにか、死とは何かと別々に捉えてあーだこーだひねくり回しても意味はないように思う。

 凡夫には分からないとなっているけど、私は坐禅した瞬間に凡夫ではなくなると思っている。ものすごく厳しい過酷な修行をしなければ凡夫のままだ、なんてことになったら、仏教は人々を救えない。

 毎日坐禅して瞬間瞬間を一生懸命生きること、これ以外に何かやることがあるだろうか。生とか死とか考えている暇などないと思っている。