正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その七十八

 岩波文庫138ページ「生は一枚にあらず、死は両疋(りょうひつ)にあらず。死の生に相対(そうたい)するなし、生の死に相待(そうたい)するなし」

 生は一であり、死は二であるというように考えるものではない。死と生は相対的な存在ではないし、生が死に関連して存在するというものでもない。

 生、死を観念的に相対(あいたい)するものと考えるのではないということだと思っている。

 日常生活は生死の連続だし、生きている今の瞬間を生きればいいだけで、死をひっぱり出してきても意味はないのじゃなかろうか。

 生きているときは]生きている時だし、死ぬときは死ぬ時。当たり前だ。そのことをつべこべ考えても仕方がない。

 何故生きているかと言えば、大宇宙の真理を体得して日常生活を生きるためだ。これは大変なことなんだけど、中々そう思ってもらえない。成功して富を築くとか、地位を得るとか、そういうことだと分かりやすいのだろうけど。しかし、それらが第一の目的で、それらの呪縛にかかっておかしくなってしまう人ってたくさんいるのではないだろうか。会社は社会の人たちが評価する商品とかサービスを提供すれば利益が出る。これは普通のことだ。普通のことを毎日積み上げた結果利益が出る訳だ。では、会社にとって普通のこととは何かということが問題になる。

 それは坐禅しなければ分からない。