正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十

 岩波文庫138ページ「この道著(どうじゃ)しづかに功夫点撿すべし。圜悟禅師かつて恁麼いふといへども、なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず」

 この圜悟禅師の言葉を落着いて色々な角度から考えなければいけない。圜悟禅師は昔このように(生也全機現、死也全機現)と言っているけれども、まだ不足である。それは生死は全機能という言葉では表せないもっと大きなものなのである。

 道元禅師は、一定の評価をした方々の言動を書いたうえで、まだそれでは不十分だというように解説されることがよくある。

 生は全機能の発現であるし、死も全機能の発現である、しかし瞬間瞬間来ては去り来ては去りの生と死の連続の中で必死に生きている状態は全機能の発現という言葉では足りないのだ。

 仏教・仏道坐禅によって大宇宙と一体となり、大宇宙の真理を体得する。言葉では言い表せない。しかしそれを何とか伝えようと道元禅師は、過去の言葉の引用からさらに展開されて解説をされている。

 ミャンマーで軍がクーデターを起こしたという。仏教徒が国民の9割だそうだ。仏教なのに何故国が混乱するのか、ロヒンギャを迫害するのか、という疑問が出てくるだろうと思う。私は坐禅していれば人間は異常なことはできない、と信じている。ミャンマーにおける仏教の実態はどうなのだろうか。

 軍にしても選挙で負けてしまうと既得権益が危ういという極めて経済的理由、欲望で動くだろう。兵器を持っていて訓練しているのだから、やろうと思えば何でもできるだろう。しかし、これは政治的、経済的な闘争だと思う。

 ロヒンギャにしても背景には色々歴史的なことも含めてあるのだろう。民族、宗教、経済など色々な要素があるのだろう。イギリス、日本など外国の介入もあったようだし。

 ただ、本当に坐禅を行って仏教を勉強しているなら(修行)、生命を傷つける、宇宙を汚すようなことは絶対にできない、そう信じている。そうなっていないのが現実と認めなければならないし、様々な主義、思想がある、各国の思惑・国益が絡み合っている現実は認めて、当面どのようなことが人類として妥当なのか考え、行動す」るしかないのだろう。

 ただ、究極的には坐禅しかない。それはいつか必ず実現すると信じている。大宇宙の真理なのだから。