正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十一

 岩波文庫139ページ「去来を参学するに、去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり」
 瞬間瞬間が去っては来る、このことを学ぶとき、瞬間瞬間は消え去るそれが生死であり、瞬間瞬間がやってくるそれが生死であり、生きるというのは瞬間瞬間の連続であり、死も瞬間瞬間の連続である。
 人間は、というかすべての存在は瞬間瞬間の連続の中にある。人間の価値は今この瞬間に何をするか、その行動にある。行動にしかない。どんなに過去立派なことをしても、今この瞬間下劣なことをすれば、その人間は下劣な人間でしかない。過去の業績とかを偏重するのは間違いなのだけれど、世の中、過去の業績で人を評価してますなあ。今馬鹿なことをしてる奴は、馬鹿としか言いようがない。だけど、周囲も過去の業績があるのでものが言いにくいとか、何より本人が「俺はこういうことをやって評価された。だから偉いんだ」と頑なに思っている。憐れだけど、今はそんな世の中だ。しかし、今馬鹿なことをすれば、因果の法則でそれに見合った結果が訪れる。時間はかかっても必ず訪れる。
 坐禅して、身心で上に書いたことを体得しない限り、世の中まともにはならないと信じている。