正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 身心学道その八十三

 岩波文庫139ページ「生死を頭尾(とうび)として、尽十方界真実人体はよく飜身回脳(ほんしんかいのう)するなり」

 瞬間瞬間繰り返す生死というものは全身に行き渡っているものであり、この大宇宙全体がイコールこの真実の人体であり、我々が生きているというのは、この大宇宙そのものである人体を翻したり、考え方を回転させたりしながら生きているということなのである。

 行動するということは、大宇宙が動くということであり、考えるということは大宇宙全体を使っているのだ。人間というのはそういう尊いものなのだと思っている。

 今、森喜朗さんの発言が女性蔑視として大騒ぎになっている。私は人間の行動の基準、人間の価値の基準は大宇宙の真理に適っているかしかない、他にあり得ないと考えている。

 だから、性別だとか、人種だとか、とにかく関係ない。あるのは大宇宙の真理を体得し、それに沿って行動しているかだけだ。

 真理とは何か、絶対的基準とは何か、それなしの議論は不毛だとは思う。だけど、坐禅してないと、このことは理解してもらえないだろうなあ。

 森さんを攻撃すること、辞職に追い込んだとしても、根源の真理の問題に行き着かない限り、結局は表面的に取り繕うだけになってしまうのではないだろうか。「ああいううことを言うと攻撃されるから気を付けよう」では、本質的には何も変わらないと思うけど。

 人間の価値とは何か?坐禅して見てもらえないですかねえ。