正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その三

 岩波文庫141ページ「外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼(せんに)となづく。かれが見処のいはくは、大道(だいどう)はわれらがいまの身にあり、

そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる苦楽をわきまへ、冷煖(りょうなん)を自知し痛癢(つうよう)を了知す」

 ここからしばらく外道についての解説となる。むしろ一般に考えられている仏教の主張のように見えるが、道元禅師は外道、すなわち仏教ではない思想と断定されている。

 外道の類として、インドに外道(仏教ではない思想)があり、先尼(シニカ、セーニャの当て字)と名乗っていた。彼の主張するところは、真実は我々の肉体にある。というのは、簡単にわかることだ。つまり苦しいとか楽しいとかを感じ、冷たいとか暖かいが自分で分かるし、痛いとか痒いとか分かるではないか。

 自らの肉体が真実を宿している。それは五感が備わっているのだから、それは自らの肉体に真実が備わっていることだ。この後に出てくるが霊知・霊魂のようなものが備わっている、存在すると言っている訳だ。この後、さらに外道の考え方が紹介されるが、このようなものは仏教ではないと道元禅師はおっしゃっている。

 霊魂、魂というと仏教思想だと一般には思われているようだが、そうではない。道元禅師がそうおっしゃっているのだから。

 霊を清めるとか、霊は存在するとか主張する人がいるけど、まあ、そう信じているならそれでいいし、それで幸せに暮らせるなら文句を言う筋合いはない。

 ただ、私はこの瞬間瞬間を生きるのに精一杯で、霊魂なんて考えている余裕はない。坐禅して大宇宙の真理と一体となって生きていればいいのであって、霊魂とか余計なものは不要だと思っている。