正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その六

 岩波文庫141ページ「たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎(にんしゃ)の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭々霊々としてある、これを覚者智者の性(しょう)といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称ず」

 たとえ肉体は滅んでも、霊知は滅びることなく肉体から抜け出すのだ。これは、例えて言うなら家が火事で焼けてしまっても、住んでいる人は外へ逃げ出すのと同じである。霊知はあきらかに存在する。これを真実を理解した人の本質という。これを「ほとけ」とも言うし「悟り」とも言う。

 よく聞く話だと思う。こういうことが仏教だと誤解されていることが多いのではないかな。

 肉体とは別に霊知・霊魂があってこれが仏であり、「悟り」の正体だという。だから、この霊知・霊魂を探し回るという時間の無駄をしてしまうし、悩みはこじれていってしまう。

 身心学道の巻にあったように、この現実の世界を、この現実の身心を使って坐禅をしながら、瞬間瞬間行動していく、大宇宙の真理に即して行動していく、それが仏教・仏道を学ぶことであり、それがすべてだ。霊知・霊魂なんてものは関係ない。というか、そんなものを持ち出すことが、人々を混乱させ、悩みを深くさせてしまうものだと私は思っている。

 断っておくけど、霊知・霊魂は仏教思想には関係ないと言っているだけで、そういうものが存在するとか存在しないとかいうことはどうでもいい。関心のある人は研究されるのならされたらよいと思う。現代の科学が解き明かしていることは、大宇宙のほんのひとかけらだと思っている。もしかしたらそういうものがあるかも知れない。ただ、仏教・仏道とは関係ないと言っているだけだ。

 霊知・霊魂を仏教のように装って金もうけしようとする輩がいるのでご注意を。仏教とは関係ないと知ったうえで、なお信じるというなら、そうすればよろしいというだけのことだ。