正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その八

 岩波文庫142ページ「本性(ほんじょう)より縁起せるゆゑには実法なり。しかありとも、霊知のごとく常住ならず、存没(ぞんもつ)するがゆゑに。明暗にかゝはれず、霊知するがゆゑに。これを霊知といふ」

 存在するものの本質から発生したものならば、真実の法であろう。しかしながらそれは、霊知のように常にある存在・未来永劫存在するものではない。なぜなら存在するものは消え去るものであるから。明るい暗いに関係なく知ることができる(明暗に関わらずに知ることができる=霊が知る)から、これを霊知というのである。

 しばらく、外道つまり仏教ではない思想についての解説が続く。この後には大証国師(南陽慧忠禅師)とある僧との問答も紹介されている。

 道元禅師がこれだけの紙数を費やしておられるのは、この後にも書きになられているが、当時の中国においてもこのような外道の考え方が仏教・仏道だとされており、それは間違っていることをはっきりさせなければいけないとお考えになったからだと思う。

 この間違いはいまだに続いているようにみえる。だから、誤った考えに陥らないように正法眼蔵を読み坐禅しなければならないのだ。