正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その九

 岩波文庫142ページ「また真我と称じ、覚元(かくげん)といひ、本性と称じ、本体と称ず。かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ」

 また真の自分の本体・本質と称するし、悟りの根元とも言い、本性・本体とも言う。

このように自分自身の本体・本質を悟ることを永遠に変わらない存在に還ったといい、真実に立ち返った大士という。

 繰り返すがこれは外道の考え方、仏教・仏道の考え方ではない。

 大体、悟ったら永遠に変わらないなどという考え方は、私は危険な考え方だと思う。「修行が足りない、帰依が足りない、布施が足りない、だから悟れない、不安が消えない、安心ができない、悟ればずっと救われる」なんて言って金もうけする輩が出てくるからだ。

 澤木興道氏は「悟りなんてものが、ころっとある訳はない」という趣旨もことを言っておられたと記憶している。悟りとは坐禅した瞬間の境地以外のなにものでもない。坐禅して大宇宙と身心が一体となったときが「悟り」なのだ。だから、毎日坐禅してその境地を持続させなければいけない。「仏向上時」という言葉があるように、仏教・仏道に一定の理解ができても常に坐禅し続けなければならないのだ。

 私は「悟り」という言葉は上記のとおり、俗物の考えに汚されてしまっているし、誤解を生みやすいので使いたくない。

 「自分は実力がある。自分の考えは真実だ。だから権力があって当然、反対する奴を攻撃して当然」と自分で思い込むのは、「自分は悟った」という外道の考え方に陥ったことと同じだと思う。

 政治家とかメディアを見ていると、そんな気持ちになってしまう。

 坐禅しましょう。