正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十

 岩波文庫142ページ「これよりのちは、さ生死に流転(るてん)せず、不生不滅の性海(しょうかい)に証入するなり。このほかは真実にあらず。この性あらはさゞるほど、三界六道は競起(きんき)するといふなり。これすなはち先尼外道が見なり」
 (悟って常住、永遠の霊となれば)その後、生死を繰り返すことはない。生まれるとか死ぬとかの無い世界にあきらかに入るのである。これ以外の考え方、あり方は真実ではない。この真実が現れなければ、欲界・色界・無色界や地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上などの世界が競うように沸き起こる(常住ではない)という。これがすなわち先尼外道、仏教ではないものの考え方である。
 生死に関わらないとか不生不滅だとか永遠だとか一旦悟れば後は安心安定だとか、すべて仏教ではない。
 同じことしか書かないが、仏教はこの現実の世界を瞬間瞬間大宇宙の真理に即して行動する教えだと思っている。瞬間瞬間を大宇宙の真理に即して行動するためには坐禅によって身心をバランスさせ、大宇宙と一体になる必要がある。
 坐禅した瞬間が悟りであって、永遠の霊魂だとか訳のわからないものは関係ない。
 今の瞬間を必死に生きているときに、永遠の霊魂とか考える暇などない。
 霊とか霊知とか霊魂とか言っている人は仏教とは関係ない人。そのことはくれぐれも理解して欲しいと思う。