正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十一

 岩波文庫142ページから145ページまでは、大証国師(南陽慧忠禅師)とある僧(南方から来たという)の問答が記載されている。

 原文は漢文であり、かなりのボリュームがあるので私なりに要約して書いてみる。

 なお、南陽慧忠禅師は六祖大鑑慧能禅師の法をついだ方である。

 南陽慧忠禅師の問いかけに答えて、南方から来たという僧は次のように答える。

 南方には優れた仏教の指導者がいる。彼らは「即心是仏」と教え示す。仏とは「覚」ということであり、それは見聞覚知という性質のことである。この見聞覚知という性質は身体は滅んでも不変である。

 これは、ここまでに書いた外道の考え方そのものである。

 これに対し、南陽慧忠禅師は厳しくそれは仏教ではないと言う。

 もしそうならば、それは先尼外道の考え方と違いはない。その考え方では、正しいか間違っているか区別できない。どうしてこんなものを「是」と認められるだろうか。自分は色々なところを行脚したが、このような「教え」が盛んに行われているのを見た。今もっとも盛んだろう。このようなものは釈尊の本当の教えを削り取って、下らないものを付け加えて人々を惑乱させているのだ。苦々しいことだ。釈尊の教えは滅びた。もし見聞覚知を仏性とするならば、維摩居士(ゆいまこじ)は「法は見聞覚知を離れている(超越している)、もし見聞覚知を行ぜばこれは見聞覚知であるだけであって、法を求めることではない」とは言わないだろう。 

 維摩居士(維摩詰(ゆいまきつ))は僧侶ではなかったが釈尊の教えを深く理解していたと言われている。維摩居士の言っていることは「大宇宙の真理は、見たり聞いたり言葉の上で覚えたり知ったりするものではない」ということだと思う。

 肉体は滅んでも不滅のものがあるとか、人間の感覚・脳味噌で考えたものが真理だとか、仏教はそんなものではない。

 坐禅した境地を経験すれば、理屈ではなく、わかることだ。坐禅しなければ話しにならない。坐禅しましょう。