正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十三

 岩波文庫146ページ「近代は大宋国に諸山の主人とあるやから、国師のごとくなるはあるべからず。むかしより国師にひとしかるべき知識いまだかつて出世せず。しかあるに、世人(せじん)あやまりておもはく、臨済・徳山も国師にひとしかるべしと。かくのごとくのやからのみおほし。あはれむべし、明眼の師なきことを」

 近頃は偉大なる宋の国の住職であるやからの中には国師のような者はいない。昔から師と同じ力量を持った指導者はいまだかつて現れていない。そうであるのに世の中の人間が誤って思っていることは、臨済義玄禅師や徳山宣鑑禅師も国師と同じ力量を持っているだろうということである。このようなやからだけが多い。はっきりと仏教・仏道を理解した師がいないことを憐れまねばならない。

 ここは凄いところだと思う。臨済禅師も徳山禅師も仏教史上著名な方で、臨済宗という宗派だってある。しかし、道元禅師は釈尊直系の国師(南陽慧忠禅師)にはこの二人は及ばないとしておられる。今こんなことを言ったら大騒ぎになるだろう。念の為ですが、これは正法眼蔵に書いてあるので、私が勝手に言っているのではないので誤解の無いように。

 ただ、私は道元禅師がおっしゃることは正しいと信じる。私は道元禅師を研究しているのではなく信じている、信仰しているからだ。

 宗教は信仰するもの、信じなければ宗教にならない。ここは怖いところでもある。2001年9月11日のアメリ同時多発テロにしても、オウム真理教地下鉄サリン事件にしても当事者たちにとっては「信仰」により「正義」となった訳だ。

 人間を殺してよい正義などあり得ないと思うが、「信仰」の下では「是」とされるリスクがあることが証明されている。

 従って、どの宗教を信じるかがすべてを決定する。私は他の宗教のことは全く知らない。ただ、道元禅師のお書きになった正法眼蔵を読み、坐禅して日常生活の瞬間瞬間を大宇宙の真理に即して行動していく、ということに納得できたので、他の宗教に興味が無いだけだ。

 他の宗教でご自身が納得して満足ならば、私がとやかくいう必要はない。

 ただ道元禅師は仏教・仏道を真に理解していないと判断した方々に対し厳しい態度を取っておられる。自らが本来の仏教・仏道を体得されたと絶対的な自信がおありになったから。