正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その十五

 岩波文庫146ページ「「仏(ぶつ)」百草(はくそう)を拈却(ねんきゃ)しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身(こんじん)に説似(せつじ)せず」

 大宇宙の真理・現実を体得した方々は、この世の中の色々な存在を実際に取り上げたり、手放したり具体的な行動をしておられる。そうではあるけれども、その自分の行動が釈尊と同じものであるなどと言うこともない(ただ行動されているだけ)。

 釈尊は背丈が一丈六尺あり全身が金色であったという伝説がある。だから丈六の金身というのは釈尊のこと。

 仏というのは大宇宙の真理に従って日常生活を一所懸命生きている人。特別な物凄い存在ではない。前回も書いたけど「普通に生きること」にこそ価値がある。金をもうけた、国会議員になったなどというのは、「価値」ではない。そういうこともあるという事象であってそれに振り回されるのは正気を失っている。

 コロナでもオリンピックでも総務省の接待でも、ぎゃあぎゃあ建前ばかり、きれいごとばかり言ってるように見えてならない。大宇宙の真理なんて夢にも思ってない。まあ、色んな人が色んな利権や思惑で複雑怪奇に絡まりあっているんだろうけどね。

 黙って坐禅して正気に返りませんか?