正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その二十九

 岩波文庫149ページ「たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一極微(いちごくみ)中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫(むりょうこう)に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏(はんけんり)に発心修証するも即心是仏なり」
 たとえ一瞬、真実を知りたいという気持ちを起こし坐禅して大宇宙の真理を体感・体得(発心修証)するのも即心是仏であり、極々小さなものの中で(存在の大小に関係なく)発心修証するのも即心是仏であり、永遠の時間の中で発心修証するのも即心是仏であり、はっと思った時に発心修証するのも即心是仏であり、ちょっとした動作によって発心修証するのも即心是仏である。
 発心修証=心=仏=大宇宙の真理と私は理解している。問題は、真実・真実を知りたいと思うか、思ったら坐禅するかにかかっている。
 世の中見ていると、どうしてそんな考えを正しいと思えるんだろうか?という人たちがたくさんいると思える。よく臆面もなく自分が正しいと主張できるなあと思う人たちもたくさんいる。
 道元禅師は、どんな時間でもいい、どんな空間・場所でもいい、坐禅すればその瞬間に仏だとおっしゃっている。これくらい救いであるものが他にあるだろうか。
 厚生省の官僚が大人数で宴会したとのことで非難されている。こういう時期にやっちゃまずいよね。立場上も一層まずいだろう。
 だけど官僚って、滅茶苦茶長時間労働で、縦関係が厳しくて、政治家も好き勝手言うし、官僚を悪の権化みたいに目の敵にしている人たちもいるし、ブラック企業みたいで可哀想だなとは思う。今回の宴会は良くなかったとは思うけど。
 しかし国家の一大事みたいに騒ぐのも、いじめみたいに見える。
 他人が何をしようと、誰が何を言おうと、真実・真理に基づいて行動できない限り、社会、国は正常にはならない。コロナだって一人一人の行動が結局全てではないだろうか。
 坐禅するしかない。