正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その三十

 岩波文庫149ページ「しかあるを、長劫(ちょうごう)に修行作仏(さぶつ)するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演する正師をみざるなり」
 そういうことであるのに、長い期間修行し仏となる(坐禅する)のは即心是仏ではないというのは、即心是仏を見たこともないし、知らないし、学んでいない。正しい師から教えを受けていないからである。
 坐禅をした瞬間に仏である。そしてその状態を維持するために毎日坐禅し続ける。これだけのことだと思っている。それをずっと続けているのは「即」ではないというのは見当違いだ。
 世の中、人生、何でもありだ。様々なことが起こる。それに対して瞬間瞬間一生懸命に行動していく。そのためには坐禅が必要だ。
 私にとって「正師」がいない。生きている人物を師とするのに物凄く抵抗がある。対人恐怖症で人間が嫌いだからだ。だから恐れ多いが道元禅師を師と思うことにしている。坐禅して正法眼蔵読んでいれば叱られないのではないかと勝手に思っている。
 世の中、偉いと言われている人にろくな奴がいないとも思っている。