正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 即心是仏その三十一

 岩波文庫149ページ「いはゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり」
 いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏釈尊なのである。釈迦牟尼仏とは今この瞬間の心=大宇宙の真理ということなのである。過去・現在・未来に諸仏はあるが、すべて仏という状態であるときは、釈迦牟尼仏なのである。このことを即心是仏というのである。
 何回か坐禅した瞬間に仏となると書いた。これは道元禅師が正法眼蔵の中で書いておられることだ。仏とは釈迦牟尼仏つまり釈尊に他ならない。
 釈尊尊い存在であり、尊敬する方である。しかし、神秘的な存在、超人的存在、いわゆる神のような存在ではない。我々も坐禅すれば釈尊と同じ存在なのだ。
 正法眼蔵を読んで私が一番感銘を受けた、影響を受けたのはこのことかもしれない。坐禅している限り、私は釈尊と同じなのだ。そうして見ると、世の中の利権争い、権力闘争、利益にとりつかれている人たち、そのようなことと一線を引くことができたと思っている。
 世の中から上に書いたようなことはなくならないだろう。しかし、「程度」ということがある。そのことがわかったような気がしている。
 坐禅した身心の状態で大宇宙の真理に従って瞬間瞬間行動していく。そしてそのことは釈尊と同じなのだ。そう確信している。