正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その一
今回から行仏威儀の巻。ぎょうぶつゐいぎ、と読む。
岩波文庫151ページ「諸仏かならず威儀を行足(ぎょうそく)す、これ行仏なり行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず」
諸仏は必ず尊い姿、威儀がその行動に備わっている。これが行仏(大宇宙の真理に従って行動する)である。行仏は過去の行いの結果として仏になるということではない、仏というものに変化するということではない、自分の中に仏というものがあってそれが現れてくるということではない、また他人の力で仏になるということではない。
行動が大宇宙の真理にかなっていなければいけない。それが仏。大宇宙の真理にかなっている姿は美しく尊い。端的に言えば坐禅の姿だ。そして坐禅した身心で行う行動だ。
澤木興道氏の本の中に、まだ子供の澤木氏が雑用係として永平寺に置いてもらっていたとき、時間が空いたので仏堂で坐禅していたところ、普段澤木氏をこき使っていた婆さんがその姿を見て付し拝んだ、というエピソードが書いてある。
人間がひたすら無我夢中になって一生懸命行動する姿は美しいと思う。スポーツが感動を与えるとしたら、そういうことだと思う。
どんなに言葉で言い繕っても、どんなに地位があっても、どんなに資産を持っていても、行動が駄目なら、人間として駄目だ。
大宇宙の真理にかなっていない行動は、遅かれ早かれ必ず破綻する。
現実が答えを出す。
だから瞬間瞬間の行動が重要。コロナだって一人一人の行動にかかっている。坐禅した身心で行動しなければならない。
政策も勿論大事だが、その政策が正しいかどうかは大宇宙の真理にかなっているかどうかだ。そしてそれを判断できるようになるためには坐禅が必要だ。
坐禅しましょう。