正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その三
岩波文庫151ページ「しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道(どう)行履(あんり)を通達せること、唯(ただ)行仏のみなり」
知らなければならない、仏(大宇宙の真理を体得した)の方々が仏道にあるということについては、「分かった」「理解した」というまで待つ必要はないのである(悟りとかを待つ必要はない)。たとえ大宇宙の真理を体得しても(仏となっても)、毎日毎日向上するために大宇宙の真理を日常生活の行動の隅々にまで行き渡らせるためには、ただ仏として行動するのみなのである。
何回も同じことを書くけど、坐禅した瞬間に仏なのだ。道元禅師も重要なことを何回も繰り返し繰り返し書いておられる。
そして行動が全てだ。大宇宙の真理に従った行動が全てだ。
瞬間瞬間いかに行動するか。それは坐禅しない限りわからない。
大宇宙の真理しか人間が拠って立つものはない。そして坐禅したバランスした身心で現実をしっかりと受け止めなければ行けない。
今は何だか、わーわー言うだけで、何がしたいんだかよくわからない。真実の実現のためには現実をよくよく見て、どうして行くのかがわからなきゃ駄目だ。非常に時間がかかることもあるだろう。国内だけだって、いろんな人たちがいる。世界になれば、それこそわけわからんくらい複雑だ。
その中で日本はどうするのかな?
一人一人が坐禅して、大宇宙の真理に従って瞬間瞬間行動するしかない。
無理かなあ。