正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その四

 岩波文庫151ページ「自性仏等、夢也未見在(むやみけんざい)なるところなり」

 報仏とか化仏とか自性神仏などといろいろ「仏」と称するものがあるが、それらは坐禅した身心で大宇宙と一体となって行動する「仏」などというものは夢にも見たことが無いだろう(本当の「仏」とは何かわかっていない)。

 「夢也未見在」という言葉は正法眼蔵に多く出てくる。本当の仏教を知らず、訳の分からないことを信じている人は、仏教について「夢也未見在」なのだ。

 今の世の中、真実とは何かについて、個人の頭の中の妄想に憑りつかれ、欲望に憑りつかれ、見栄に憑りつかれ、本当の真実など考えない「自分が正しい」と正気を失っている、そういう人が多いと感じる。憑りつかれちゃっているから、うっかり「そうじゃないんじゃない?」なんて言おうもんなら、血相変えて狂ったように攻撃してくる。その異常さに気が付かないのも「憑りつかれている」からだ。

 坐禅して憑き物を落として、本来の面目=大宇宙の真理に立ち戻りませんか。