正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その六

 岩波文庫152ページ「行仏にあらざれば、仏縛法縛(ぶつばくほうばく)いまだ解脱(げだつ)せず、仏魔法魔に党類(とうるい)せらるゝなり」

 坐禅した身心で大宇宙(仏)と一体となって行動するということでないならば、仏とは何か法とは何かを頭の中で観念的・抽象的に考え、それに囚われ、引きずり回せれて縫いけ出すことができなくなり、釈尊の教えではない魔物の類となってしまうのである。

 今、皇室の結婚を巡って28ページの文書がどうのこうのと騒いでいる。本当のところは分からないけど、何だか頭の中の観念に囚われちゃっている印象はある。ただメディアの情報しか知らないので、本当のところはわからない。

 書店に行って仏教関係の書棚を見るとたくさんの本が並んでいる。仏教の経典に至っては膨大だ。これらを読まなきゃ仏教が分からないということでは、仏教は人を救えない。だから、道元禅師は正法眼蔵をお書きになり、坐禅すればよいと説かれた。

 今の風潮は観念論・抽象論を振り回す人が目立つ。現実はどうなっていて、だからこのように行動するのだ、というような地に足の着いた話をあまり聞かないように思う。

 言葉だけなら何とでも言える。けど真実に従った行動することは難しい。坐禅しない限り無理だ。

 以前は「国家百年の計」という言葉を聞いたように思う。でも今は目先で起こったことにぎゃあぎゃあ騒ぐだけで、この国をどうしたいのか、世界の中で日本をどうしたいのかさっぱりわからない。米中の対立は先鋭化するような気はするし、ロシアだってじっとはしていないだろう。EUだって権益を守り・拡大しようとするだろう。日本はどのような立場でどうしたいのだろう。

 これは一人一人が真実・真理は何かを坐禅を通じて体得し、毎日の生活の瞬間瞬間を行動していくしかない。国政はその一人一人の行動によって決まる。