正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その七

 岩波文庫152ページ「「仏縛」といふは、菩提を菩提と知見解会(げえ)する、即知見(そくちけん)、即解会(そくげえ)に即縛るせられぬるなり」

 「仏縛」というのは真実・真理(菩提)を頭の中で観念的・抽象的に理解しようとするために、頭の中の世界に縛られてしまい、真実・真理に到達できないのである。

 知識は必要だ。習得するために努力しなければいけない。しかし問題はその知識を瞬間瞬間の行動に活かせるかだ。あるいは、得た知識・情報が正しいのか瞬間に判断できるかだ。

 凝り固まった偏狭な知識に縛られ、現実が見えずおかしな言動をする人が多いなあと思っている。政治家は与野党ともそんな人ばかりに見える。まあ、メディアも似たようなものだからそこからの情報で判断するのは危険だけれど。

 真実・真理は坐禅した身心ならば瞬間に分かると信じている。そうじゃなければ、大宇宙の真理に従って瞬間瞬間生きていくことはできない。直観だ。

 頭でっかちになって、自分の頭に入っているものを盲信してはいけない。でも、そういう人には通じないんだよね。

 大宇宙の真理が絶対だ。しかし、現実の中でどう行動するか、大宇宙の真理を実現するために一時はおとなしくしておくのか、リスクを取ってでも動くのか。これは凝り固まった偏狭な知識では無理。ただ騒ぐだけで現実の問題は解決しない。

 

 

 

 坐禅しかない。