正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十一

 岩波文庫152、153ページ「教家経師論師(きょうけきょうじろんじ)等の仏道を遠聞(おんもん)せる、なほしいはく、「即於法性(そくをほっしょう)、起法性見(きほっしょうけん)、即是無明(そくぜむみょう)」この教家のいはくは、法性に法性の見(けん)おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ、法性の縛あることをしらず」

 頭の中の理屈で仏教を学ぼうとする人たち、経典により仏教を学ぼうとする人たち、議論を通じて仏教を学ぼうとする人たち、この人たちは仏道を遠く離れたところから聞いているのであるが、それでも彼らは「法性に即して法性の見が起こる、それは無明である(宇宙の本質は何かという考えを起こして、それについて色々な見方が起こる、それは迷いである(無明))」(しかしながら)この言葉は法性を理屈で考えることで法性についての見解が起こるということについて、法性(という理屈)に縛られているということを言っておらず、さらに無明という理屈に縛られていることをその上に重ねていて、法性に縛られるということがあることを知らないのである。

 頭の中の理屈・言葉に縛られ現実に疎いというのは、今の世の中しばしば見られると思っている。知識とか論理を重んじすぎではなかろうか。学問は重要だが、学問という閉じた世界で成績・業績が優秀だからといって人間として優れているかは関係ない。

 底の浅い言葉は長くはもたない。現実が答えを出す。コロナへの対応でも、政治家の「言葉」にみんな辟易としてるんではないかな。皇室の結婚を巡る話でも論理や理屈ではなかろうと感じる。問題は日々の瞬間瞬間の行動だ。

 「言葉」を次々と重ねていくと、どんどん強い調子にせざるを得ない。聞いている側は結果が伴わなければどんどん「しらける」だけだ。こうして「言葉」は力を失っていく。

 現実の泥沼を七転八倒して行動する、他人が評価しようがしまいが、問題は大宇宙の真理に即しているかどうかだ。「成功」=「経済的な豊かさ」なんてことでは、あまりにも浅薄であり、大袈裟ではなく人類を危機に陥れるのではなかろうか。米中の対立なんてその典型ではないか。

 人間が生きるとは何か、それは坐禅しない限り分からない。