正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十三

 岩波文庫153ページ「かるがゆゑに「我本行菩薩道(がほうんぎょうぼさつどう)、所成寿命(しょじょうじゅみょう)、今猶未尽(こにゅうみじん)、復倍上数(ふくばいじょうしゅ)」なり」

 ここは法華経の寿量品からの引用だそうだ。釈尊がおっしゃったことには「自分は真実を求めて菩薩として修行してきた、その修行のなすところの命は今なお尽きることなく、さらに何倍にもなっていく。」

 ここでの寿命というのは、生物としての寿命ではない。大宇宙の真理というのは永遠に不変であり、それを求めて修行(坐禅)していることは、永遠の価値を持っているということだと思う。そしてそれは、「これでいい」ということはなくずっと修行し、価値を持ち続けるということだと思う。

 坐禅して大宇宙の真理と一体となり、行動する。それは永遠の価値を持っている。

 近頃起こっていることを見ていると、目の前のことであたふたぎゃあぎゃあ。言葉ばかり偉そうなことを言ってるだけで、大宇宙の真理、永遠の価値なんてひとかけらも感じない。こんなことで大丈夫ですかね?人間て何のために生きてるのだろう?