正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十四

 岩波文庫153ページ「しるべし、菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ「上数(じょうしゅ)」は、全「所成(しょじょう)」なり。」

 知らなければならない、「永遠の真理・価値(寿命)」というものを、頭の中でこねくり回して、過去から今に至るまでずっと続いているのだとか、過去に遡ってもずっと存在しているのだなどとしてはいけない。今言っている「上数」は数量のことではなく、今現在行動していることなのである。

 過去どうであったとかなどということは意味がない。問題なのは「今現在の行動」なのだ。人間の価値は「今現在の行動」で決まる。私自身誤ったことはする。誤ったことは受け入れるしかない。次にどう行動するかが問題だと思っている。

 覚醒剤で亭主を殺したとかで、55歳年下の若い妻(元妻)が逮捕されとかいう。過去に資産を築いたのかもしれないが、夫も妻も現在のこの瞬間の生き方としては、とても価値があるものとは言えないだろう。妻の方はまだ容疑者だから犯人かどうかはわからないが、人間の生き方として価値がある生き方だと思っていたのだろうか?何回も書くが人間の価値は大宇宙の真理に即しているか、一体となっているか、瞬間瞬間それに沿って行動しているかで決まる。

 メディアの記事や広告など見ると、資産を形成する、金をもうけることが「成功」みたいになっている。

 脱炭素も表面は綺麗だけれど、その裏ではどろどろとした熾烈な経済闘争があるのだろう。

 人間はどう生きたらよいのか?坐禅するしかない。