正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十五

 岩波文庫153ページ「いひきたる「今猶(こんゆう)は、全「寿命」なり。「我本行(がほんぎょう)」たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛却任縦横(はくねんほうきゃにんじゅうおう)なり。」

 ここで言っている「今猶」この瞬間こそが全寿命、すべての価値であり、すべての価値を決めるものである。自分がまさに今行っていることは、頭の中の観念ではずっと続いている一本の鉄の塊=永遠のように見えるが、そんな永遠とか百年とかいう時間の観念など関係なく(自分の中から振り捨てて)自由自在に行動するのである。

 同じことを何回も書く。重要なことは何回も書く。道元禅師が書いておられるから。人間の価値は今この瞬間に何をしているかで決まる。今この瞬間の行動が正しいかは坐禅が教えてくれる。

 今、情報(信用できるかどうかは全く別問題だが)はたくさんある。しかし、大半というかほとんどが「だからどうした」というような類のものばかりだ。言うだけなら簡単だ。そして簡単だからどんどん言い募っておかしな方向に行きかねないと思っている。そしてそのおかしな方向で世の中が捻じ曲がって行きはしないかと不安に思う。

 人間の価値は何か。今の時代はそれを見失っている。そう思う。