正法眼蔵がなければ死んでいた 私にとっての正法眼蔵 行仏威儀その十六

 岩波文庫「しかあればすなはち、修証(しゅしょう)は無(む)にあらず、修証は有(う)にあらず、修証は染汚(ぜんわ)にあらず」
 そういうことであるから、修行という行動とその結果は「無い」訳ではない。しかし修行したから結果が得られる(悟りを開くのような)というようなことが「有る」という訳ではない、修行という行動とその結果は頭の中であれこれ考えて、それを汚すような対象ではない。
 要は坐禅した身心で瞬間瞬間行動することがすべてであって、観念的に有るとか無いとか言うべきものではない。そんなことをすることは仏道を汚すものだ、ということだと思う。
 現代は、頭でっかちの言葉だくさんの時代だなあとつくづく思う。伝染病が流行っている中オリンピックやるというのはどういうことなのか、客観的に説得力のある説明を聞いた覚えがない。メディアも政権が嫌いなメディアは妙な偏った情報を流すし、それを伝えてどうするの?と言いたい情報ばかりのメディアもたくさんある。覚醒剤で高齢の夫を殺したかもしれない女性の情報もたくさん流している。なんだか、世の中何が大事なんですかね。
 坐禅して行動する。大宇宙の真理と一体となる。そうしないと、何だか取り留めのない変な世の中になってしまうと思うけどなあ。